第2章 彼女が帰ってきた
京清市東郊の山あい。夜の色は濃く、肌をなぶる風はひやりと冷たい。
そのとき、伸び放題の草むらから、ぬっと獣の頭が突き出た。
狼に似た影。
黄緑の瞳が、獰猛な光をぎらりと放つ。少し離れた地面に倒れ、今にも息絶えそうな少女を、じっと見据えていた。
飢えきった獣にとって、血の匂いは抗いようのない誘いだ。
獣は草を蹴散らして飛び出すと、少女めがけて凶暴に襲いかかり、その細い手首にがぶりと噛みついた。
鋭い牙が皮膚へ食い込んだ瞬間――橘結衣は、はっと目を見開いた。
瞳いっぱいに、形を持ったような激痛が満ちる。
――私、
死んだんじゃ……。
ここは、どこ……?
肉を裂かれるような痛みに、彼女は無理やり顔を上げた。
次の瞬間。
人と獣の視線が、真正面からぶつかる。
その一瞬で、意識が氷水を浴びたように冴えきった。
橘結衣はもう片方の手を伸ばし、狼の目へ爪を立てるようにして力任せに抉り込んだ。
「ギャウッ!」
夜を裂くその悲鳴は、まるで亡霊の叫びだった。
橘結衣は地面に膝をつき、狼の喉を押さえ込む。もう一方の手に握っていた尖った長枝を、容赦なくその首へ突き立てた。
枝は深々と貫き、獣のもがきがぴたりと止まる。
橘結衣はしばらくそのままの姿勢で息を整え、下敷きになった獣から完全に生命の気配が消えたのを確かめてから、ゆっくりと手を離した。
周囲を見渡す。
生い茂る草木。転がる石。足元を這い回る虫けら。
ここは、京清市西郊の鳳鳴山。
そして目の前の光景は――4年前の、あの夜と寸分違わない。
橘晴美が一緒に階段を下りていたとき、足を滑らせて落ちたせいで、橘礼子に庭へ跪かされ、反省しろと命じられた。
体力が尽きて気を失い、目覚めたときには――この人気のない鳳鳴山へ捨てられていた。
橘結衣は体を支えながら、地面から立ち上がる。
繰り返される出来事。
見慣れた風景。
そのすべてが、ひとつの事実を突きつけていた。
――戻ってきた。
4年前に。
前の人生で、彼女は必死になって媚びた。
けれど返ってきたのは、両親と兄たちの嫌悪と軽蔑だけ。
もう、親の情なんて求めない。
彼女にとって一番大事なのは――自分自身、それだけだ。
橘結衣は舌先で、長く水気を取れず乾いた唇をそっと湿らせる。
それから無惨な死に様をさらす狼を見下ろし、枝をその体から引き抜いた。
その枝を杖代わりにし、足を引きずりながら山を下りていく。
——
橘家。
昼食の時間。
橘晴美は背筋を正して食卓につき、向かいの端整な黒スーツ姿の男へ目を向けた。
「翔太兄さん、お姉ちゃん、まだ戻ってないし……帰ってくるまで待って、一緒にお昼にしない?」
「時間までに戻らないのは、あいつ自身の問題だ」
橘翔太は冷えた声音で言い切る。
「ひとりのために、全員が待つ必要はない。そもそも、待つ価値もない」
「晴美、食べろ」
橘由樹は橘結衣の名を聞いただけで、ひどく不快そうに眉をしかめた。
「あいつの話はするな」
そう言って、橘晴美の取り皿に肉を数枚載せる。
「お前の好きなやつだ。最近痩せたし、ちゃんと食え」
橘晴美はふわりと笑った。
「由樹兄さん、ありがとう」
そのとき――。
ドン、と鈍い音がした。
玄関の扉が開く。
橘結衣が、そこに立っていた。
上は安物の白いTシャツ。二か所、無惨に裂けている。
下は色褪せたジーンズ。白い靴の裏には泥がべったりとこびりついていた。
豪奢な屋敷には、あまりにも不釣り合いな姿だった。
橘翔太はちらりと目を向けただけで、すぐに視線を戻す。
最初から興味などないと言わんばかりに。
高級な白シャツを着てステーキを切っていた橘元太は、わずかに眉をひそめた。
その目に嫌悪がよぎる。
「どうしてそんな格好になってるんだ」
橘結衣は何も答えず、食卓へ向かった。
「食べる前に洗ってこい。晴美は免疫が弱い。菌でも移されたら困る」
橘元太が淡々と言う。
「……」
橘結衣は橘元太を一瞥し、そのまま踵を返して階段へ向かった。
橘元太は一瞬だけ動きを止める。
少し、意外だった。
山から引き取られてきて以来、橘結衣は世間知らずで、見下されることを恐れていた。
だから彼らの前では、いつだって異様なほど慎重に媚びていた。
この家に溶け込みたい、と全身で訴えるように。
いつも卑屈で、いつも逆らわず、視線はひたすらすがるようで――まるで犬だった。
だが、さっきの目は違った。
あまりにも平坦で、何の執着もない。
そんな目、今まで見たことがない。
——
橘結衣は階段を上がり、廊下の突き当たりにある部屋へ向かった。
扉を開けると、中には1.2メートルほどのベッド。
簡素な机と椅子。塗装の剥げたクローゼット。ひびの入った鏡。
それが、この家で彼女に与えられた部屋だった。
物置を改装しただけの部屋。
窓はない。
陽の光も差し込まない。
それでも、以前の彼女は満足していた。
祖母が言っていた。
人は感謝を忘れてはいけない、と。
だから彼女は、橘家が自分を引き取ってから与えてくれたすべてに感謝していた。
この家の誰もかもを気にかけ、大切にしようとした。
失ったはずの家族を、ようやく取り戻せたのだと信じて。
橘結衣は鏡の中の自分を見つめる。
脳裏に蘇るのは、この4年間の、息をひそめるような日々。
毎日、機嫌をうかがい、必死に気を引き、少しでも優しくしてもらおうと足掻いた。
ほんのひとかけらでも憐れみをもらえると信じていた。
けれど、何ひとつ返ってこなかった。
あの人たちは、家族の名を盾にして彼女を貶め、辱め、飼い慣らし――そして、殺した。
橘結衣は、この陽も差さない薄暗い部屋を見回し、深く息を吸った。
本物の橘家の令嬢が、こんなにも卑屈であっていいはずがない。
——
食事が半ばまで進んだころ。
橘結衣は気だるげな足取りで、階段を下りてきた。
清潔な服に着替え、整った目元は黒白がくっきりとしている。
目尻はやや吊り上がり、以前のような怯えた視線は消え失せていた。
冷えた静けさの奥に、幾重にも重なった剣呑さが潜んでいる。
いつも縮こまっていた肩も今はまっすぐ伸び、淡々とした足取りで歩いてくる。
その姿は、まるで冷たい風のようだった。
橘由樹が思わず目を見張る。
顔を上げて橘結衣を見た橘晴美は、心臓をひゅっと掴まれたように息を呑んだ。
顔色がわずかに白くなり、テーブルの下で手をぎゅっと握り締める。
――こんなに綺麗だった?
特に、あの目。
隣の橘晴美の緊張に気づいた橘由樹が、慌てて声をかけた。
「晴美、どうした?」
橘晴美は小さく首を振り、唇を結んで笑みを作る。
「ううん……ただ、お姉ちゃん、今日はなんだか少し違う気がして」
橘由樹は鼻で笑った。
「ただの田舎者だろ」
橘晴美はそっと彼の袖を引く。
「由樹兄さん、そんな言い方しないで。お姉ちゃんも、兄さんの妹なんだから」
「妹?」
橘由樹は即座に切り捨てた。
「俺の妹は、お前ひとりだけだ」
橘結衣は何ひとつ揺れた様子もなく、橘元太の隣の空席へ向かう。
橘元太は眼鏡の位置を直し、冷えきった声で言った。
「俺から離れろ」
橘結衣は聞こえなかったふりで椅子を引き、そのまま腰を下ろす。
橘元太は眉を寄せた。
「お前と隣で座りたくない」
潔癖症なのだ。
橘結衣は箸を持つ手をぴたりと止める。
しばらくしてから、わずかに首を傾げた。
「じゃあ、あんたが消えれば?」
その一言に、橘元太だけでなく、橘翔太も橘由樹も不意を突かれたように目を見開く。
橘元太は信じられないといった顔をした。
「……今、何て言った?」
橘結衣は睫毛を伏せたまま、底冷えのする声で言い直す。
「一緒に座りたくないなら、あんたが消えればって言ったの」
「お前……」
橘元太の端整で気品ある顔から、一瞬だけ表情が抜け落ちた。
自分に消えろと言ったのか。
この橘結衣が。
「橘結衣」
橘翔太が視線を向け、冷たく口を開く。
「兄に向かって、どういう口の利き方だ」
橘結衣はまっすぐ橘翔太を見返した。
そこにはもう、かつて彼に向けていた憧れも、認められたいという願いも欠片もない。
「向こうが私にどう言うかで、こっちも決めてるだけ」
